鳴門・撫養湊に関係する『神奈川県の浦賀』調査報告

●19世紀に盛行した北前船は、主に北海道の鰊粕(魚肥)や昆布を日本各地に運び、日本経済に大きな影響を与え、日本文化を育んだ。阿波忌部は黒潮航路で鳴門を出発し、関東を拓いた。一方、日本海側にも進出し、数多くの痕跡を各地に残した。その日本海側忌部航路の近代版が北前船であった。鳴門「撫養湊」は、古代から阿波の主要港で、北前船の時代には、忌部の時代と同じく東西海運の結節点として繁栄した。特に北海道の主要商品である鰊粕(魚肥)を西日本で一番購入していたのは撫養湊であった。その魚肥は、吉野川流域の藍栽培に使用され、ジャバンブルーを生み出す原動力となった。現在、北前船の船主集落や寄港地が次々と日本遺産に登録されている。撫養湊なくして北前船は語れず、徳島県の活性化のためにも、撫養湊の日本遺産登録に向け活動する予定にしている。

●鳴門市撫養町弁財天三ツ井町の撫養街道沿いには、祭神を市杵島比売命・大己貴命・事代主命とする「市杵島姫神社」が祀られている。その玉垣には、「相模国浦賀町 臼井儀兵衛」、「東京都深川臼井支店 西村彦太郎」等の名が見られる。江戸で撫養の斎田塩は、江戸の食文化の基盤を支えた。また、斎田塩や赤穂塩を原料に千葉県銚子・野田の醤油醸造業は大いに発展した。その斎田塩の主要移入港は神奈川の浦賀であった。

●『明治期西浦賀における問屋の経営の変遷』(吉村雅美)によると、西浦賀の廻船問屋・宮井家は「清喜丸」という廻船を所有していた。その清喜丸の明治31年(1898)の取引記録に、撫養の村澤宗十郎・天羽兵太郎から本斎田塩を仕入れた記録がある。明治35年(1899)には、村澤宗十郎・天羽兵太郎・山西庄五郎の記録がある。明治39年(1903)には田渕清一郎・天羽兵太郎の名が見える。この塩は宮井店だけでなく臼井支店にも販売されるようになっていた。臼井氏は「有米取調帳」に載る大黒屋儀兵衛のことで、幕末から明治期にかけた西浦賀の代表的な商家であった。
●この鳴門の塩の移出と関係の深い浦賀を確認しようと、2024年6月27日に横須賀市浦賀を視察した。そして、横須賀市浦賀の宮井家(旧家)を訪れた。また、浦賀郷土資料館を訪問し、宮井家の遺品を確認した。忌部の時代もさることながら、江戸後期の歴史の記憶も人々の記憶から忘れ去られようとしている。その記憶は記録し、後世に伝えなければならない。