No.9 – 忌部為麻呂と鰻淵神社 吉野川市会員 川島 迪夫

 新元号が「令和」に決定、いよいよ時代が「平成」より「令和」へ移行する時が近づいてきました。阿波忌部直系の三木信夫氏が住む美馬市木屋平字貢では、4月9日に麻の種を畑に播く播種式が古式厳かに行われ全国的に注目を集めました。阿波忌部氏は麻というイメージもありますが、日本各地に絹織物を伝播させたという伝承も伝わっています。奈良時代に麻植郡川島郷に居た忌部為麻呂は、絹織物(黄絁)を奈良正倉院に奉納しました。その忌部為麻呂の後裔である鰻淵三郎兵衛を祀るのが吉野川市川島町川島の「鰻淵神社」です。今回は、その神社を守る株内となる川島迪夫氏に執筆していただきました。

忌部為麻呂と鰻淵神社

吉野川市会員 川島 迪夫

【川島迪夫氏のプロフィール】
元徳島県職員・獣医師、JA麻植郡理事、徳島県農政クラブ常任理事。鰻淵神社株内
一般社団法人心身統一合氣道会鴨島教室主宰、心身統一合氣道七段。

 吉野川市川島町のJR阿波川島駅から、線路沿いに北へ200mほど進んだ小高い丘の上に「鰻淵神社」はあります。この神社は、正倉院御物の一つである黄絁(きあしぎぬ)を貢納した忌部為麻呂の後裔、鰻淵三郎兵衛(うなぎぶちさぶろべえ)を祖神とする祖霊社です。阿波忌部に多少なりとも縁を感じますので、紹介させていただくことにいたしました。

鰻淵神社 旧本殿

現在の鰻淵神社の拝殿


 まず、神社の拝殿に掲げられている「鰻淵祖霊社由緒(以下由緒)」にはこの神社の由来が次のように書かれています。

「鰻淵神社は慶長15年(1610年)6月19日没せし鰻淵三郎兵衛を祭神とし 昭和5年(1930年)3月社地をここに相(さが)し元春日神社境内より遷座し奉る 扨〃(さてさて)鰻淵氏の祖は遠く忌部氏に出ず 乃(すなわ)ち史を繙(ひもと)くに正倉院南倉覆類袷覆(おおいるいあわせおおい)の銘に天平4年(732年)10月阿波国麻植郡川島少楮里戸主忌部為麻呂(いんべのためまろ)戸調黄絁(こちょうきあしぎぬ)一匹とあり 楮(こうぞ)の里とは現今の大字岡山山田水神の淵一帯の地を指し1400年の昔忌部氏のこの地に住せしこと明らかなり 降(くだ)って先祖三郎兵衛は為麻呂の後裔にて名主なり 天正13年林道感川島入城の砌(みぎり)之を迎え忠勤を励むこと久し 而(しこう)して鰻淵の姓は古(いにしえ)より旱天(かんてん)に際し水神の淵に棲む鰻に祈りて慈雨を降らせ霊験赤赤たり 後(のち)東道宮祉に神泉を穿(うが)ち鰻を移棲(いせい)し神泉水にて諸病を治し萬物救うの行事の掌主たりに仍(より)て以(もっ)て姓となす 現在株内には鰻淵、柴田、山本、山下、山中、三木、三村、片岡、川島、槌谷、前田の姓を称する者あり 茲(ここ)に同族相謀(あいはか)り祖神の由来を略記し後世に伝えるものなり 株内一統」

 この由緒は、棟札により本殿、拝殿が再建された昭和8年に書かれたものと思われます。必要箇所を要約し考察してみたいと思います。

 今から1287年前の奈良時代、聖武天皇の遺愛品を中心に収蔵された正倉院御物に、麻植郡川島の忌部為麻呂が貢納した黄の絁一疋(あしぎぬいっぴき)(一反)が納められています。このことから、奈良時代、すでに川島郷では蚕が飼われ絹織物が作られていたことが明らかであり、川島町の桑村の地名もこれに由来すると思われます。そして為麻呂の子孫は古くから川島の山田水神の滝付近の地に住み、旱天(かんてん)等天変地異に際しては、水神の滝に棲む鰻に祈って雨を降らせたり神泉水で病気平癒の祈祷などの神事を行ない、これに因んで鰻淵と呼ばれるようになり、自らもそれを姓にしたようです。


忌部為麻呂が奉納した黄絁(『川島町史』より)

忌部為麻呂が奉納した黄絁の復元
(『第61回正倉院展目録』㈶仏教美術協会より)


 なお、由緒にある「東道宮祉」とは、現在の「川島神社」東側の斜面にある「東道神社」と思われます。確かに神社前に古泉があり、傍らの案内板には、この神泉水はイボ、ナマズなどの皮膚病はもとより諸病によく効き霊験あらたかであり、またこの神社は雨乞いの際にもよく祈願されたと書かれています。これらのことから、為麻呂の子孫は後に現在の川島神社辺りに移って、病気平癒や自然災害に対するお祓いや祭事を行なう役割を担っていたものと思われます。時代はさらに下って戦国時代に入ると、川島の地も戦に明け暮れるようになります。


東道神社

東道神社の古泉


 先祖鰻淵三郎兵衛はこのような激動の時代に川島で生きた人物です。元亀4年(1573年)には三好氏の権力争いでもある上桜城の戦いがあり、上桜城主篠原紫雲が自害しました。また天正7年(1579年)には、川島城(川島北城、今の川島神社辺り)に拠る細川氏家臣川島兵衛進が、四国統一を狙う土佐の長宗我部元親側によって脇城外の戦いで打ち取られています。この徳島県の歴史上最も激戦であった二つの戦いを、このころおそらく20歳前後の青年であったであろう先祖三郎兵衛はどのような思いで見ていたことでしょうか。また何らかの形で戦に参加していたのでしょうか。おそらくは争いを好まない平和氏族である忌部一族として、戦乱の終結を神に祈っていたのではないでしょうか。


 やがて世の中は豊臣秀吉によって統一され、蜂須賀家政が阿波国主となって入国します。そして天正13年(1585年)には、蜂須賀家家老の林図書助能勝(よしかつ)(号道感)が川島城主として、5500石の知行と兵300人をもって阿波西方の抑えとなります。由緒には、三郎兵衛は林能勝が川島城に入った砌(みぎり)これを迎え忠勤を励んだと記されていますが、忠勤とは如何なる役目を担ったのでしょうか。おそらく尾張の国から蜂須賀家政とともに阿波に来て、川島城を任された林能勝としては、支配のためこの辺りの有力者であり名主でもある三郎兵衛に協力を要請し、民衆を慰撫する方策をとったものと考えられますが、現存する林家家譜には三郎兵衛の名は確認されません。よって家来としてではなく、地元代表の一人として政治に協力する傍ら、祈祷や方位占い等神事を執り行う家として尊重され、祭祀全般を任されていたものと考えられます。
 三郎兵衛は慶長15年(1610年)7月19日に亡くなりました。戒名は道休禅定門です。林能勝の号である道感との縁を感じる戒名です。林家は、3代目が大坂冬の陣の際に起こした乱心の罪により改易されました。さらに寛永15年(1638年)には徳川幕府の「一国一城の令」により川島城は廃城となり、替わって徳島藩奉行所が置かれ徳島本藩から代官が派遣されるようになると、鰻淵家の役割もお役御免となったのかもしれません。なお、三郎兵衛没後は3代目の七佐衛門以降、家伝の雨乞い神事や祭事は誰が継承したかは不明です。
 このあたりから幕府による幕藩体制が強化され、士農工商の身分制度も確立されつつあったので、鰻淵一族の多くは帰農したり商に転じていったものと推測されます。なお、神社に残されている棟札から、明治42年(1909年)3月19日の三郎兵衛没三百年祭には31名の株内が、昭和8年(1933年)の旧本殿・拝殿再建時には24名の株内が確認されました。しかし、平成22年(2010年)3月19日の四百年祭には9名に減少しております。時代の流れとはいえ寂しい限りではありますが、残っている株内一同が協力して、末永くこの祖霊社を守っていきたいと思っているところです。

平成31年4月吉日 株内 川島迪夫 記


棟札 祝部 忌部宿祢と見える

棟札