No.2 – 天皇即位の大嘗祭と阿波忌部氏 忌部文化研究会 会長 林 博章

天皇即位の大嘗祭と阿波忌部氏

忌部文化研究会 会長 林 博章

 今上天皇陛下は2019年4月30日に退位、翌5月1日に皇太子が即位され、11月14日~15日に大嘗祭が行われる運びとなった。大嘗祭とは農耕儀礼を母体とし、天皇が即位して最初の「新嘗祭」のことを指す。古代阿波国を拓いたとされる阿波忌部氏は、歴代天皇の大嘗祭で、大嘗宮内に建てられた悠紀殿・主基殿の第一の神座に神衣として奉られる「麁服」と呼ぶ麻の反物(麻織物)を調進する重責を担ってきた。その最古の記録は、平安初期の807年(大同2年)に斎部宿禰広成が平城天皇に撰上した『古語拾遺』である。また、詳細な記録は、平安前期の『貞観儀式』(859~877年)や『延喜式』(927年)でその内容を窺い知ることができる。その後、平安中期の『小右記』に67代三條天皇の践祚(1011年)、後期の『山槐記』に82代後鳥羽天皇の践祚(1183年)、鎌倉初期の『三長記』に84代順徳天皇践祚(1210年)に関する記録が見られる。なお、「践祚」とは天皇の位に就くことである。
 美馬市木屋平貢には三木家(徳島県最古の国重要文化財)があり、歴代天皇の大嘗祭に関わる「三木家文書」が保管されている。三木家は、麁服を調進してきた阿波忌部直系の御殿人で、鎌倉時代、1260年の90代亀山天皇を最古に、後伏見(93代)・花園(95代)・後醍醐(96代)・光厳(北朝一代)・光明(北朝二代)の6代天皇、合計14通の太政官符・官宣旨案等の古文書を保有する。当時、国の公職にも就いてない三木家が、国の公文書の写し、特に太政官符等の写しを保有していることは、当時の朝廷が阿波忌部の御殿人という伝統的な家筋を評価し、天皇家とゆかりの関係にあったことを示している。『延喜式』や「三木家文書」を紐解くと、旧麻植郡の一民家に「太政官符案」等が御殿人の家筋をもつ忌部氏に依頼が来る。次に麁服を調進する忌部の氏人は、朝廷より派遣された勅使(荒妙御衣使)のもと、京の都へと入り、神祇官に麁服のみ直接預り置かれ、大嘗祭の当日まで丁重に保管された。そして当日、朱雀門で繪服(神衣となる絹織物)や他の供物や御贄(由加物)と合流し、御殿人が直接大嘗宮内の神座まで麁服を運び奉った。
 麁服の調進は、光明天皇の大嘗会を最後に中断。「応仁の乱」が1467年に起こり、戦国時代に突入すると、朝儀の多くは断絶してしまい、大嘗祭が再興されたのは江戸時代、東山天皇の1687年のこと。江戸期の麁服は忌部代行事官に調進させ、以降、明治まで続けられた。大正天皇の大嘗祭を控え、1908年(明治41年)に「忌部神社」の宮司であった斎藤晋春が『践祚大嘗祭御贄考』を著し、徳島県に行啓された東宮殿下(後の大正天皇)に荒妙や木綿を献上し、大嘗祭の麁服調進の儀の復活を訴えた。

大正天皇と大嘗祭

 1915年(大正4年)に、大正天皇の大嘗祭を控え、麻植郡木屋平村貢(三ッ木)の忌部直系の末裔で三木家当主であった三木宗治郎は、『三木由緒』・『大嘗祭に阿波忌部奉仕の由来』などを著し、麁服の復活を陳情した。宮内省へは木屋平村三ッ木出身の漢学者・山田貢邨を通じて運動した結果、大礼使より「大嘗祭の儀において悠紀殿主基殿の神座に奉安する麁服は阿波国より調進せしめることに決定したから適当な調進者を決定して晒布四端(悠紀殿主基殿各二端寸法鯨尺幅九寸、長さ二丈九尺)を調進せよ」との通達を受け、知事は三木宗治郎を調進者と決定。実に577年ぶりに麁服が復活されることになったのである。また、愛知県も熱心な運動により中世以来途絶えていた繪服が復活したことも忘れてはならない。
 大正天皇における麻の栽培は、海部郡木頭村北川(那賀郡那賀町木頭)で行われた。7月5日に麻植郡山川町の「山崎忌部神社」の境内が卜定され、織殿の地鎮祭と起工式が行われた。7月11日には、山崎村有志(山川町)で忌部崇敬會が設立された。木頭村では、8月初旬に麻の刈取り、麻皮剥ぎ、麻晒作業が行われ、8月10日に木屋平村「谷口神社」の拝殿で6人の麻績女により紡績作業が行われ、9月9日に「山崎忌部神社」の境内織殿で「織初式」が挙行された。その織女には山崎村の6名の少女が選ばれた。10月15日には「織上式」が挙行され、麁服は唐櫃に納められ、山瀬駅より列車で徳島駅に送られた。そして徳島市の徳島公園内の千秋閣に安置され、2日間一般人の縦覧を許され、10月18日に夜航で上京し、19日に京都の「大宮御所」に供納された。そして、同年11月14日に麁服が大嘗宮の悠紀・主基両殿の神座に奉られたのである。

昭和天皇の大嘗祭

 大正天皇は1926年(昭和元年)12月25日に崩御され、12月28日に践祚し昭和と改元、そして朝見の儀を行い、皇位継承の旨を宣言した。この12月25日から翌年12月24日までの一年間が喪期とされ、その喪明けを待って即位の礼と大嘗祭の準備が始められた。そして、1928年(昭和3年)11月7日、京都に着かれた天皇は、大正天皇と同じ日程で即位の礼・大嘗祭を行った。この昭和天皇の大嘗祭には、前回同様、三木宗治郎が麁服奉仕者となり、麁服が調進された。
 まず、麻畠は木屋平村貢の八石山に決定され、4月13、14日に麻の種を蒔き終えた。6月25日には、山瀬村の織殿の地鎮祭と起工式を行った。8月6日には「抜麻式」が挙行され、抜き取られた麻の剥皮作業や精麻作業を「三ッ木八幡神社」の境内で行った。9月13日には「日吉神社」の拝殿で「麻紡式」が挙行され、そこで紡がれた麻糸が、9月21日に山瀬町(山川町山瀬)の「麁服御殿」へ送られた。25日に「織殿落成式」と「織初式」が挙行され、前回と同じく6名の選抜された山瀬町の織女6名が織り上げた。10月23日に「麁服織上式」を行った後、汽車で県庁へ送られた。翌10月24日に一般人に縦覧され、そして小松島港から船で上京し、大宮御所へ奉納されたのである。

今上天皇の大嘗祭(平成の大礼)

 昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に崩御され、すぐさま今上天皇が践祚された。1990年(平成2年)の11月12日に即位の礼、11月22日に大嘗祭が行われた。この大嘗祭では、阿波忌部直系で三木宗治郎の孫となる第28代目当主・三木信夫氏が会長となり再び麁服が調進された。
 1989年(平成元年)8月16日に「木屋平村麁服貢進協議会」、10月14日に「山川町麁服貢進協議会」が結成され、麻畑が木屋平村貢の三木家に選定され、1990年(平成2年)4月4日に「播種式」、7月17日に「抜麻式」「初蒸式」、その後、精麻作業が行われた。8月2日には「初紡式」が行われ、「麁服麻績殿」と書かれた拝殿で巫女装束の5人の紡女が紡糸作業を行い、9月11日には、「三ッ木八幡神社」で唐櫃に納められた紡糸の「紡糸出発式」が行われた。その紡糸は、直ちに山川町の「山崎忌部神社」に運び込まれ、「山川町麁服貢進協議会」に引き継がれた。そして、9月17日に「麁服織初式」を行い、山川町の織女が巫女装束姿で、1ヶ月がかりで4反の布に仕上げた。その後、10月27日に木屋平村の三木家で、出発の神事が行われ、唐櫃に入れられた麁服が、川井総合グラウンド(木屋平村)の式場まで運ばれ、「木屋平村麁服貢進出発式」が挙行された。その後、山川町の「山崎忌部神社」に送られた。28日には「麁服出発式」が催され、10月30日、「木屋平村山川町麁服貢進協議会」の三木信夫会長ら14名が、脇町・川島両署警察官の護衛のもと皇居に向った。そして、皇居の神嘉殿へと納められ、平成の大役は終了したのである。その後、麁服は11月22日夕刻、東京の皇居東御苑に設けられた大嘗宮の悠紀・主基両殿の御神座に入目籠に納めて供えられ、23日の未明にかけて大嘗祭が密やかに斎行されたのである。今回の大嘗祭も三木信夫氏が主体となり執り行われる予定である。
 大嘗祭は今から約1200年前の天武・持統天皇の時代に整備され成立した。徳島市国府町の「観音寺遺跡」より出土した690年頃の木簡には「麻殖評」とあることから、麁服の調進は既に天武の時代には行われていたと考えられる。その日本創建の記憶を辿るような文化の継承が21世紀まで行われることは徳島県民にとっても日本人にとっても大きな誇りと財産であり、その歴史的意義を深く見詰め直す必要があるだろう。

※麁服関係写真(三木家資料)