No.34 – 「麻植塚」~由来とJR麻植塚駅~ 忌部文化研究会 会長 林 博章
令和2年(2020年) 6月 NO.27
日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”
忌部文化研究会 会長 林 博章
会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の開拓に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地や史跡を紹介したいと思います。鴨島町編の11回目は、麻植塚の由来です。
「麻植塚」~由来とJR麻植塚駅~
●場 所 - 吉野川市鴨島町麻植塚
吉野川下流域南岸、鴨島町最東部を東流する飯尾川と江川流域に挟まれた牛島の西側に広がる地域、飯尾川が形成した向麻山(こうのやま)の北から西へ広がる地域が麻植塚であり、徳島本線JR麻植塚駅が置かれている。
その麻植塚の由来は、『麻植郡郷土誌』麻植塚「御所神社」の項に、「祭神大麻綜杵命(おおへつきのみこと)を祀る」、「阿波風土記曰く、天富命(あめのとみのみこと)は、忌部太玉命(ふとだまのみこと)の孫にして十代崇神天皇(すじんてんのう)第二王子なり、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)にして大麻綜杵命(おおへつきのみこと)娘なり、大麻綜杵(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚(おえづか)と称するならんと云う」、「阿波風土記に曰く大麻綜杵命(おおへつきのみこと)の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)なり按(あん)するに大麻綜命は阿波忌部族なるべし~」とある。阿波忌部の一族の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)の名が呼びにくいため「麻植塚」と呼ぶようになったとする。また、同書の「麻植の神塚」項には、「麻植村小字麻植塚あり同地に面積五坪高さ三尺古墳如きものありて麻植の神塚と称されておる。塚上今倉某の石碑数基ありて付近地名を塚西塚東と呼称され、忌部の氏人今鞍進士(いまくらしんし)の祖を祀りし地と伝え付近今鞍(いまくら)姓あり今鞍進士(いまくらしんし)の後裔ならんと。」と、鎌倉期に麁服(あらたえ)を調進する御衣御殿人の役目を負った忌部の氏人・今鞍氏の祖先を祀る塚に由来するとある。江戸期~明治22年(1889年)には麻植塚村、明治22年~現在に至ってもなお[麻植塚]の名称が遺され親しまれている。
その麻植塚の由来は、『麻植郡郷土誌』麻植塚「御所神社」の項に、「祭神大麻綜杵命(おおへつきのみこと)を祀る」、「阿波風土記曰く、天富命(あめのとみのみこと)は、忌部太玉命(ふとだまのみこと)の孫にして十代崇神天皇(すじんてんのう)第二王子なり、母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)にして大麻綜杵命(おおへつきのみこと)娘なり、大麻綜杵(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚(おえづか)と称するならんと云う」、「阿波風土記に曰く大麻綜杵命(おおへつきのみこと)の母は、伊香色謎命(いかがしこめのみこと)なり按(あん)するに大麻綜命は阿波忌部族なるべし~」とある。阿波忌部の一族の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)の名が呼びにくいため「麻植塚」と呼ぶようになったとする。また、同書の「麻植の神塚」項には、「麻植村小字麻植塚あり同地に面積五坪高さ三尺古墳如きものありて麻植の神塚と称されておる。塚上今倉某の石碑数基ありて付近地名を塚西塚東と呼称され、忌部の氏人今鞍進士(いまくらしんし)の祖を祀りし地と伝え付近今鞍(いまくら)姓あり今鞍進士(いまくらしんし)の後裔ならんと。」と、鎌倉期に麁服(あらたえ)を調進する御衣御殿人の役目を負った忌部の氏人・今鞍氏の祖先を祀る塚に由来するとある。江戸期~明治22年(1889年)には麻植塚村、明治22年~現在に至ってもなお[麻植塚]の名称が遺され親しまれている。