No.7 – 忌部山の摩崖仏 忌部文化研究会 会長 林 博章
平成31年(2019年) 3月 NO.4
日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”
忌部文化研究会 会長 林 博章
会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらう目的で、“忌部を行く”を連載しています。阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に活躍した阿波忌部の足跡を辿っていきます。中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。山川町編の第4回は「忌部山の摩崖仏」です。
忌部山の摩崖仏
●場 所 - 吉野川市山川町忌部山
「忌部神社」のさらに上方、忌部山の中腹、忌部山古墳群の入口に建つ聖天寺の社殿背後には、高さ約3m・幅約1.5mの三方囲いの緑泥片岩の巨岩があり、その内壁には、左側北西方向に「大日如来(だいにちにょらい)」、真中北東方向に「弘法大師」、右側南東方向に「不動明王」が彫られている。これは「摩崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれるもので、徳島県には、この忌部山と勝浦郡勝浦町「星の岩屋」のほぼ2ヶ所のみに残される貴重な仏教遺産である。
摩崖仏とは石仏の一種で、自然の岩壁を利用し、その岩面に彫刻された仏像のことである。この様式はインドで始まり、アジャンター石窟寺院や中国の雲岡石窟などが世界的に名高い。日本には奈良・平安時代に多く、特に平安後期、大分県臼杵市の臼杵摩崖仏群が有名である。
推測するに、忌部山の「摩崖仏」は、忌部族が神の依り代(よりしろ)として崇拝した神代の「磐座(いわくら)」であった。奈良期に入ると神と仏とを調和させ同一視する神仏習合思想が広まった。平安中期には、本地垂迹説が登場するが、このような風潮の中で本来の磐座に仏教思想が重ねられる形で三体の仏像が彫られたと思われる。
摩崖仏とは石仏の一種で、自然の岩壁を利用し、その岩面に彫刻された仏像のことである。この様式はインドで始まり、アジャンター石窟寺院や中国の雲岡石窟などが世界的に名高い。日本には奈良・平安時代に多く、特に平安後期、大分県臼杵市の臼杵摩崖仏群が有名である。
推測するに、忌部山の「摩崖仏」は、忌部族が神の依り代(よりしろ)として崇拝した神代の「磐座(いわくら)」であった。奈良期に入ると神と仏とを調和させ同一視する神仏習合思想が広まった。平安中期には、本地垂迹説が登場するが、このような風潮の中で本来の磐座に仏教思想が重ねられる形で三体の仏像が彫られたと思われる。
自然崇拝の「山の神」の祠
この摩崖仏そばの山肌には、緑泥片岩の板石を四角形型に組んで内部をカミが宿る室とする「小石殿」と呼ぶべき簡素な「山ノ神」の小祠が祀られている。剣山の北斜面から徳島市に至るまでの山間部、旧美馬郡・麻植郡・名西郡を中心に、このような石殿を祀る文化が数多く見られる。これは「山ノ神」「おかまごさん」「おふなとさん」「秋葉さん」など様々な名称で呼ばれ、特に忌部族に関係する地域に顕著に分布する。素朴な構造かつ信仰ながら、原初的(アニミズム的)な祭祀形態を現代に残しており、貴重な日本の民俗学的遺産となっている。