No.1 – 麻殖神を祀る「忌部神社」(天日鷲社) 忌部文化研究会 会長 林 博章
平成31年(2019年) 1月 NO.1
日本忌部紀行 “忌部(INBE)を行く!”
忌部文化研究会 会長 林 博章
会員の皆さまには「忌部」の足跡を楽しんでもらいたいということで、“忌部を行く”を連載します。まずは、阿波国(粟国)を拓き、日本各地の創生に貢献した阿波忌部の足跡を辿っていきます。その中でも阿波忌部が麻を植えて拓いた故事にちなむ旧麻植郡(現在の吉野川市)の伝承地を紹介したいと思います。記念すべき第1回は吉野川市山川町の「忌部神社」です。
麻殖神を祀る「忌部神社」(天日鷲社)
●場 所 - 吉野川市山川町忌部山(JR山瀬駅より車で5分)
●主祭神 - 天日鷲命(天日鷲翔矢命)、言筥女命、天太玉命、天比理能売命、
津咋見命、長白羽命、由布津主命、衣織比女命
吉野川市の西部、山川町の忌部山に祀られた「山崎忌部神社」は、平安時代に記された『延喜式』神名帳の麻殖郡条にある名神大社「忌部神社」に比定される古社である。当社は麻殖神、斎部神とも呼ばれ、『阿波志』には「忌部祠」とある。戦前まで「天日鷲社」とも呼ばれていた。主祭神は、阿波忌部の祖神である天日鷲命(天日鷲翔矢命)で、日本の弓矢の創始神となる。それは阿波忌部が良質の強い繊維の麻を殖産したが故だと見られ、忌部山の麓には「忌部の矢竹」「忌部の矢磨石」等の史跡が点在する。その他、天日鷲命の后神となる言筥女命、天太玉命(忌部の祖神)、天比理能売命(天太玉命の后神)、津咋見命(大麻比古の別名)、長白羽命(天日鷲命の子、伊勢麻績氏の祖)、由布津主命(安房忌部の祖神、大麻比古の子、東国開拓の総大将)、衣織比女命が祀られている。
忌部神社の歴史
その「忌部神社」の歴史を紐解くと、栃木県那須郡馬頭町「鷲子山上神社」(祭神・天日鷲命)の由緒には、「神社の創建は、807年(大同2年)で、地元の大蔵坊宝上人が諸国を遍歴中に、四国阿波の国で製紙の神に出会い、製紙産業の振興のためにこれを勧請した。」とあり、平安初期に当社の天日鷲命が、「製紙の始祖」として知られていた。
忌部神社の歴史
その「忌部神社」の歴史を紐解くと、栃木県那須郡馬頭町「鷲子山上神社」(祭神・天日鷲命)の由緒には、「神社の創建は、807年(大同2年)で、地元の大蔵坊宝上人が諸国を遍歴中に、四国阿波の国で製紙の神に出会い、製紙産業の振興のためにこれを勧請した。」とあり、平安初期に当社の天日鷲命が、「製紙の始祖」として知られていた。
平安初期の『新抄格勅符抄』所収「神事諸家封戸大同元年牒」(806年)には、「忌部神 廿戸 紀伊十戸、出雲十戸 」とあり、9世紀に出雲や紀伊に、麻植郡の「忌部神社」に奉祀した神戸がいた。『続日本書記』の849年(嘉祥2年)には「阿波国天日鷲神、従五位下」、『三代実録』の878年(元慶2年)4月14日条には「正五位下」、883年(元慶7年)12月28日には「従四位下」に進階したとある。島根県浜田市の式内社「大麻山神社」(石見国那賀郡条)の縁起には、「仁和4年(888年)に阿波国板野郡大麻比古神社を勧請し、主祭神を大麻比古命、配神を猿田彦命とし、同阿波国麻植郡忌部神社の祭神天日鷲命を勧請した。」とある。平安中期の「延喜式」神名帳には、「忌部神社 名神大、月次新嘗、或号麻殖神、或号天日鷲命」とあり、名神大社に列していた。
平安期に「忌部神社」は、「忌部神」として崇敬されていた。1080年(承暦4年)6月10日の「神祇官御体奏」(朝野群載)には、御在所平安のために祓いを行う神社の一つに「斎部神」の名が見える。『東大寺戒壇院公用神名帳』にも「忌部大明神」とあり(続群3上)、「忌部神」として古代より朝廷からの崇敬を集めていた。
1070年(延久2年)6月28日付の「太政官符」には、忌部神と天石門別八倉比売神に対する祈年祭・月次祭などの奉幣を阿波国司が怠っているため、国司はこれらの幣物を神祇官で受け取り、確実に奉幣するように命じられている(徴古雑抄1)。
「忌部神社」の社記(麻植郡誌)には、「文治元年(1185年)伊予国河野四郎通信が、長光の太刀を奉納、屋島源平合戦の折に源義経は、戦中安全のために祈祷の御祓神供を献じ太刀一振りを奉納した。那須与一も弓矢を奉納した。文治3年(1187年)に阿波民部成能(田口氏)が桜間城に居る時、源頼朝の命により御供料として、板東・板西・阿波・三好の4ヵ所内に田畑一千町を寄付した。天文12年(1543年)、源朝臣播磨守元常(細川元常)の代官丹治右京亮常直が祓料玄米50石を寄付。永禄3年(1560年)、管領細川讃岐守も頼朝の寄付の通り田畑一千町を寄付した。三好長治も勝瑞に居る時、以前の通り寄付した。」とある。
麁服の調進
美馬市木屋平の三木家
1070年(延久2年)6月28日付の「太政官符」には、忌部神と天石門別八倉比売神に対する祈年祭・月次祭などの奉幣を阿波国司が怠っているため、国司はこれらの幣物を神祇官で受け取り、確実に奉幣するように命じられている(徴古雑抄1)。
「忌部神社」の社記(麻植郡誌)には、「文治元年(1185年)伊予国河野四郎通信が、長光の太刀を奉納、屋島源平合戦の折に源義経は、戦中安全のために祈祷の御祓神供を献じ太刀一振りを奉納した。那須与一も弓矢を奉納した。文治3年(1187年)に阿波民部成能(田口氏)が桜間城に居る時、源頼朝の命により御供料として、板東・板西・阿波・三好の4ヵ所内に田畑一千町を寄付した。天文12年(1543年)、源朝臣播磨守元常(細川元常)の代官丹治右京亮常直が祓料玄米50石を寄付。永禄3年(1560年)、管領細川讃岐守も頼朝の寄付の通り田畑一千町を寄付した。三好長治も勝瑞に居る時、以前の通り寄付した。」とある。
麁服の調進
美馬市木屋平の三木家
践祚大嘗祭における麁服調進には、麻植忌部が歴代の御殿人に指名された。阿波忌部直系の旧麻植郡木屋平の三木家には、1260年(文応元年)の90代亀山天皇の大嘗祭における麁服調進に関係する文書を最古に、亀山・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明の6代天皇、14通の大嘗祭に関係する太政官符・官宣旨案等の文書を保有している。麁服調進は、南北朝の動乱により、光明天皇の大嘗祭を最期に、約577年間中断していた。しかし、大正時代となって三木家当主であった三木宗治郎の尽力により復活し、大正・昭和・今上(平成)天皇の大嘗祭には、再び麁服調進が執り行われた。前回の1990年(平成2年)11月の大嘗祭には、古来の伝統が生かされ、旧麻植郡木屋平村の三木家から運ばれてきた麻が、当社の織殿で、巫女装束の織姫によって織られ調進が執り行われた。
忌部神社論争
忌部神社論争
なお、この麁服調進の復活に当たっては大問題が発生している。「忌部神社」は、戦国時代の1579年(天正7年)頃に長宗我部元親軍の兵火にかかり社殿が焼失して以来、社地の所在が不明となってしまった。「忌部神社」は、1871年(明治4年)の社格制度発足に伴い国幣中社に列格されることになったが、比定地は諸説に分かれてしまった。そこで明治政府は、1875年(明治7年)の調査により小杉榲頓説を採用し、麻植郡山崎村の「天日鷲社」を忌部神社に決定した。しかし異論が出され、1881年(明治14年)に美馬郡西端山村の「五社神社」(現在の美馬郡つるぎ町貞光字吉良)が「忌部神社」とされた。このような神社の正蹟争いを避けるための折衷案として、1885年(明治18年)に政府は、徳島市二軒屋町に「忌部神社」を置くことを決定し、1892年(明治25年)に遷座鎮祭が行われ、社地論争に終止符が打たれた。「山崎忌部神社」は、1919年(大正8年)の明細帳に再び「天日鷲神社」として編入され、1967年(昭和42年)に氏子の要望により、「山崎忌部神社」と改称し現在に至っている。
忌部神社の史跡
禊・祓の史跡
忌部神社の史跡
禊・祓の史跡
境内東側の高台広場は麁服の織殿跡であり、本殿東には、麁服を織る巫女が寝泊りした家屋と共に、心身を潔斎する「禊・祓」史跡が残されている。なお、同社の元地は、忌部山中腹の黒岩にあり、巨石を御神体とする「磐座」遺跡となっている。社殿造営以前は、この「磐座」を中心に祭事を行っていたと考えられ、現社地へは、1395年(応永2年)の大地震により黒岩から移遷した。また、「忌部神社」の馬場を忌部山に向かって南進すると、家屋の傍らに自然石で構築された石段が目に入る。これが「忌部神社」への参道であり、その入口には、高さ約2mの結晶片岩の立石が、石段の両側に立てられ、聖域への入口としての鳥居が「立石文化」となっている。「麻生家」の記録(『忌部神社正蹟考』)によると、向かって右の立石の表面に、「一国一社忌部大社」と彫られていたのを、宝暦年間(1751~64年)に、社役早雲某という神主が、夜の間にきてこの石の文字を打ち割ったと云われている。
忌部神社の立石鳥居
忌部神社の立石鳥居
語句解説
★『阿波志』...
徳島藩儒の佐野山陰(憲)が1792年(寛政4年)に藩命で編纂に着手し、1815年(文化12年)に完成した藩撰の地誌。
徳島藩儒の佐野山陰(憲)が1792年(寛政4年)に藩命で編纂に着手し、1815年(文化12年)に完成した藩撰の地誌。
★『朝野群載』(ちょうやぐんさい) ...
平安後期の詩文集。算博士の三善為康が当時の漢詩文、宣旨、公私の文章などを集めて分類したもの。
平安後期の詩文集。算博士の三善為康が当時の漢詩文、宣旨、公私の文章などを集めて分類したもの。
★『東大寺戒壇院公用神名帳』...
東大寺の戒壇院は、754年(天平勝宝6年)に聖武上皇が光明皇太后らとともに、唐から渡来した鑑真より戒を授かり、翌年に日本初の受戒の場として建立された。
東大寺の戒壇院は、754年(天平勝宝6年)に聖武上皇が光明皇太后らとともに、唐から渡来した鑑真より戒を授かり、翌年に日本初の受戒の場として建立された。
★『続群3上』...
続群書類従3上のこと。群書類従は江戸後期の塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。1793年(寛政5)~1819年(文政2)に木版で刊行された。群書類従に続いて塙保己一が計画し、後は弟子が引き継いだ。
続群書類従3上のこと。群書類従は江戸後期の塙保己一が編纂した国文学・国史を主とする一大叢書。1793年(寛政5)~1819年(文政2)に木版で刊行された。群書類従に続いて塙保己一が計画し、後は弟子が引き継いだ。
★『新抄格勅符抄』(しんしょうきゃくちょくふしょう) ...
平安時代の法制書。今は第十巻の抄録のみが残されている。神社・寺院の封戸に関する大同元年(806年)の牒が主体となっているとみられ、他にそれに関連する太政官符などが収録される。平安初期の神戸・寺封の戸数・所在・施入年時などを示した唯一の史料となる。
平安時代の法制書。今は第十巻の抄録のみが残されている。神社・寺院の封戸に関する大同元年(806年)の牒が主体となっているとみられ、他にそれに関連する太政官符などが収録される。平安初期の神戸・寺封の戸数・所在・施入年時などを示した唯一の史料となる。
★『徴古雑抄』(ちょうこざっしょう) ...
明治時代の国学者・小杉榲邨が、全国の寺社・旧家の古文書を書写・抄録した稿本。阿波国に関する部分の一部は『阿波国徴古雑抄』の名称で刊行されている。
明治時代の国学者・小杉榲邨が、全国の寺社・旧家の古文書を書写・抄録した稿本。阿波国に関する部分の一部は『阿波国徴古雑抄』の名称で刊行されている。
★『麻植郡誌』著・麻植郡教育会 出版 麻植郡教育会 大正11年
★河野四郎通信(河野通信)(かわのみちのぶ) ...
1156~1223。平安後期~鎌倉時代にかけた伊予国の武将。河野通清の子で伊予水軍の将。1180年(治承4年)に源頼朝に応じ、父とともに伊予高縄山城で挙兵した。伊予内の平家与党を討ち、壇ノ浦の戦いで兵船ひきいて源義経の軍に加わった。1221年の承久の乱では後鳥羽上皇についてが敗れ陸奥の平泉に流された。通称は四郎。
1156~1223。平安後期~鎌倉時代にかけた伊予国の武将。河野通清の子で伊予水軍の将。1180年(治承4年)に源頼朝に応じ、父とともに伊予高縄山城で挙兵した。伊予内の平家与党を討ち、壇ノ浦の戦いで兵船ひきいて源義経の軍に加わった。1221年の承久の乱では後鳥羽上皇についてが敗れ陸奥の平泉に流された。通称は四郎。
★長光の太刀 ...
長光とは、鎌倉後期の備前国(岡山県)の長船派の刀工で、長船派の祖・光忠の子とされる。長光は古刀期において現在、在銘作刀が最も多い刀工の一人。国宝6点、重要文化財28点、重要美術品36点が存在する。
長光とは、鎌倉後期の備前国(岡山県)の長船派の刀工で、長船派の祖・光忠の子とされる。長光は古刀期において現在、在銘作刀が最も多い刀工の一人。国宝6点、重要文化財28点、重要美術品36点が存在する。
★那須与一(なすのよいち) ...
鎌倉初期の武士。余一、与一とも書く。下野国那須の鎌倉御家人で弓の名手。『平家物語』では、源平合戦の際、源義経の軍に従い1185年(元暦2年)2月に讃岐屋島の戦いで平家方の船上に立てられた扇の的を馬上から射落し、敵味方から賞賛された。その功で各国に恩賞地を与えられ那須氏の惣領となったが、出家して京都伏見即成院に入ったと云われる。能や歌舞伎でも知られる。
鎌倉初期の武士。余一、与一とも書く。下野国那須の鎌倉御家人で弓の名手。『平家物語』では、源平合戦の際、源義経の軍に従い1185年(元暦2年)2月に讃岐屋島の戦いで平家方の船上に立てられた扇の的を馬上から射落し、敵味方から賞賛された。その功で各国に恩賞地を与えられ那須氏の惣領となったが、出家して京都伏見即成院に入ったと云われる。能や歌舞伎でも知られる。
★阿波民部成能(田口成良)(たぐちのしげよし) ...
平安末期から鎌倉初期にかけた阿波国の有力在地武士。粟田成良とも重能・成能とも記す。民部大夫とも称した。810年(弘仁元年)に阿波守に就任した田口息継の後裔とされる。1181年(養和元年)9月に伊予国に攻め入り源氏方の河野一族を破り、1183年(寿永2年)7月の平氏西走の際、一千騎を率いて協力するなど四国に平氏根拠地を築いた。阿波・讃岐をおさえた四国最大の勢力で、平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。1173年(承安3年)に清盛の大輪田泊の築港奉行となり、日宋貿易を担当したとみられる。鹿ケ谷の陰謀では、首謀者の一人・西光の四男、藤原広長が阿波郡柿原(現阿波市吉野町)にあり、清盛の命で成良は柿原を襲撃して広長を討った。1183年(寿永2年)の平家都落ちの後、成良は四国に戻り讃岐を制圧する。屋島で内裏の造営をし、四国の武士をまとめた。屋島の戦いでは、源氏方に伯父と弟が捕縛され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』では、教能の投降を知った成良は壇ノ浦の戦いで平氏を裏切り平氏の敗北を決定づけたとする。『吾妻鏡』には、平氏方の捕虜に成良の名があり、正確な史実は不明。
平安末期から鎌倉初期にかけた阿波国の有力在地武士。粟田成良とも重能・成能とも記す。民部大夫とも称した。810年(弘仁元年)に阿波守に就任した田口息継の後裔とされる。1181年(養和元年)9月に伊予国に攻め入り源氏方の河野一族を破り、1183年(寿永2年)7月の平氏西走の際、一千騎を率いて協力するなど四国に平氏根拠地を築いた。阿波・讃岐をおさえた四国最大の勢力で、平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。1173年(承安3年)に清盛の大輪田泊の築港奉行となり、日宋貿易を担当したとみられる。鹿ケ谷の陰謀では、首謀者の一人・西光の四男、藤原広長が阿波郡柿原(現阿波市吉野町)にあり、清盛の命で成良は柿原を襲撃して広長を討った。1183年(寿永2年)の平家都落ちの後、成良は四国に戻り讃岐を制圧する。屋島で内裏の造営をし、四国の武士をまとめた。屋島の戦いでは、源氏方に伯父と弟が捕縛され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』では、教能の投降を知った成良は壇ノ浦の戦いで平氏を裏切り平氏の敗北を決定づけたとする。『吾妻鏡』には、平氏方の捕虜に成良の名があり、正確な史実は不明。
★三好長治(1553~1577) ...
戦国期から安土桃山時代にかけて活躍した戦国武将。父は三好実休。阿波守ともなった。彼は勝瑞城に拠点を構え、阿波・讃岐・淡路三国の政治を行い、畿内で戦う三好三人衆を助け、松永秀久・織田信長に対抗した優れた武将であった。1572年(元亀3年)に誤った噂より家臣の篠原長房を滅ぼした。1577年(天正5年)に荒田野(阿南市新野)で謀反を起こした家臣たちとの合戦で退却。別宮浦(松茂町長原付近)で自刃した。
戦国期から安土桃山時代にかけて活躍した戦国武将。父は三好実休。阿波守ともなった。彼は勝瑞城に拠点を構え、阿波・讃岐・淡路三国の政治を行い、畿内で戦う三好三人衆を助け、松永秀久・織田信長に対抗した優れた武将であった。1572年(元亀3年)に誤った噂より家臣の篠原長房を滅ぼした。1577年(天正5年)に荒田野(阿南市新野)で謀反を起こした家臣たちとの合戦で退却。別宮浦(松茂町長原付近)で自刃した。
★小杉榲頓(こすぎすぎむら)(1834~1910) ...
明治の国文学者・日本史学者。徳島藩家老・西尾志摩安福の家臣、明真の子。明治維新の後に文部省で「古事類苑」を編集。明治15年に東京大学講師。明治32年に東京幻術学校教授。帝国博物館で美術品調査や保存にあたる。全国を歩いき書写した古記、古文書集である『徴古雑抄』は貴重で、その中の阿波国関係のものは『阿波国徴古雑抄』として刊行された。
明治の国文学者・日本史学者。徳島藩家老・西尾志摩安福の家臣、明真の子。明治維新の後に文部省で「古事類苑」を編集。明治15年に東京大学講師。明治32年に東京幻術学校教授。帝国博物館で美術品調査や保存にあたる。全国を歩いき書写した古記、古文書集である『徴古雑抄』は貴重で、その中の阿波国関係のものは『阿波国徴古雑抄』として刊行された。
★『忌部神社正蹟考』...
1942年(昭和17年)12月5日に池上徳平(1879~1943/明治12年~昭和18年)が刊行。池上徳平氏は旧山瀬村(吉野川市山川町)生まれ。日露戦争の功績で単光旭日章を授賞。大正9年に少佐としてシベリアに出兵。昭和5年に大佐に任命される。待命後は、阿波郷土史会長、山瀬町忌部神社崇敬会会長などを歴任。業績として『山瀬町の伝説と史蹟』、『国幣中社忌部神社正蹟考』、『忌部族の研究』の著がある。
1942年(昭和17年)12月5日に池上徳平(1879~1943/明治12年~昭和18年)が刊行。池上徳平氏は旧山瀬村(吉野川市山川町)生まれ。日露戦争の功績で単光旭日章を授賞。大正9年に少佐としてシベリアに出兵。昭和5年に大佐に任命される。待命後は、阿波郷土史会長、山瀬町忌部神社崇敬会会長などを歴任。業績として『山瀬町の伝説と史蹟』、『国幣中社忌部神社正蹟考』、『忌部族の研究』の著がある。
★麻生家 ...忌部神社の神官家・村雲家が江戸期に麻生家と改めた。